私の小さい頃は、一億総中流と言われた今は亡き時代でした。
「うちは中の上だろう」「いや、上の下だ」などと家族でくだらないことを話題にしていましたが、一般的なサラリーマン家庭で育ちました。
祖父母からの援助も多少あり、生活に困ることはなく、私自身も不自由な思いをすることはありませんでした。
一般的な日本人と同じく、初詣には神社を参拝し、仏式のお盆供養にお葬式、お宮参りや七五三は神社だけれど、クリスマスは楽しむ、というごった煮でした。
当然クリスチャンの家系ではありませんが、カトリックの小学校に通いました。娘を「お嬢さん学校」にいれてみたかったのだろうと思います。
低学年の頃は、日曜日に、近くのプロテスタントの教会に通ったこともありました。宗派の違いもよくわかっていなかったのでしょう。
このように、キリスト教と関わりがありましたが、信仰を持つこともなく、聖書にふれることもなく、その後は宗教色のない学校に通い、 キリスト教や好きな賛美歌は小さい頃の思い出として埋もれていきました。
思春期ならではの些細な悩み事はありましたが、特に問題も苦労もなく過ごしました。
当時、人生で初めて打ちのめされたのは、運転免許で仮免許の試験に落ちたことでした。
その後、今となってわかった、あちら側の要請機関のような、有名な大学に通い、学生生活では勉強するよりも、体育会系の部活動に打ち込みました。
練習ばかりの毎日でしたが、部の成績もよく、キラキラとした学生生活を送っていました。もちろん、戻ることができたとしても、繰り返したいとは思いません。笑。
大きくなるにつれ、自分に自信を持って過ごしていました。それはそうでしょう、人生について、深く考えることもなく、何となく上手く生きていたからです。いつのまにか、宗教に頼るのは、弱い人だというイメージもでき、私には必要ないものだと思っていました。
そして、外資系企業に就職し、結婚後も仕事を続けていましたが、海外駐在となった夫についていく形となり退職し、やがて子育てに没頭するようになりました。
同時多発テロが起こり、アメリカの陰謀も知るようになりましたが、まだ詳しく調べる余裕もなく、もっぱら、関心は子育てのことでした。
そのような中でも、色々と思うことはありましたが、自分ではどうしようもできないことだと思っていました。前にも触れましたが、「アベノミクスは、結局富裕層のための政策だな」「どうして貧しい人・国がいつまでも貧しいままなのか・何で変わらないのか」「世の中を変えるためにまず教育なのでは、、」 などとよぎっていました。
変わらない世の中を変えるためにこんな私にでもできること
また、日々目にする痛ましいニュースを、自分と重ね合わせ、居たたまれない気持ちになることもありました。 北朝鮮による拉致事件や、JAL123便などの事故、世田谷区の殺人事件などを耳にするたび、 特に子供が巻き込まれた事件について、とても他人事とは思えず憂いでいました。
そんな思いをたまに抱きながら、日々の生活に追われていました。
年をとるにつれ、人とべったりつきあうことに息苦しさを感じていましたが、世間体もあるので、ごまかしながらうわべのお付き合いするようにしていました。
子供が小さいうちは、子供の母親達と行動することも多く、皆さんはしゃいでいる中で、 私の心の中は、なぜだかとても苦しく、いつも早く帰りたいなぁと真っ先に思っていました。
何か夢があるわけでもありませんでした。しいて言えば、子供が立派に育ってくれることでしょうか。
そうこうしているうちに40代、自分が何か新しいことを始めるという発想は何もなく、自分がやるくらいなら、 子供にやらせたいと新しい習い事をさせたり、旅行に行くなど色々な体験をさせ、自分はサポートに徹してきました。海外を始め、日本では全国に旅行をしました。もちろん贅沢な旅行ではなく、小さい子連れの珍道中です。
幸せって何だろう。よぎることはあっても答えはわかりませんでした。
古い考えですが、人並みに家庭を持ち、子供を育て、健康でいることが、恵まれていることなのだと思っていました。
周りと比べて、いい方じゃないか、人生ってこんなものだろうと、思うようにしていました。そうして、納得させていました。
美味しいものも沢山食べたし、景色も沢山見たし、それなりに欲しいものも買い、友達にも恵まれ、沢山遊んできました。
自分の人生は、このままクロージングでいいと思っていましたし、そうなるだろうと思っていました。
今から思うと、随分早くからクロージングモードだったと思うのですが、当時は、そう考えていました。
ようやく、少し時間が出来てネットを見るようになった2015年の8月頃だったか、満を持してRAPTブログに辿り着きました。 以下の記事もどうぞお読み頂ければと思います。
上記記事で「RAPTブログに出会い、私は全く生まれ変わりました」とお話ししました。一般記事で、いわゆる目に見える世の中について沢山勉強できました。
この世のカラクリについて教えていただきました。まず、それで随分救われました。自分達は、金融ユダヤの奴隷のような存在だと思っていたので、 それは正しい表現でないとはわかりました。と、同時に、日本に巣食う大きな悪なる存在がわかりました。
前述のとおり、小さい頃にキリスト教に触れていたので、クリスチャンでいらっしゃるRAPTさんの有料記事を読むことに抵抗はありませんでした。
そして、お薦めされている聖書を読み始めました。
聖書は、遠い国の神話のようなもので、まさか自分が読むことになるとは想像もしたことがありませんでした。
「聖書の解説書などに頼らず、まずは自分で読んでみるのが大切」とおっしゃる通りに、 旧約聖書から読み始め、途中途中、意味がわからないところが多々出てきましたが、有料記事でお話しされる解説を聞きながら、読み進めました。
今から何千年も前に書かれた書物とは思えない、現代の私達にとっても、道しるべとなる、尊いものでした。ずっしりと重く、心に突き刺さり、一生かけて、読みつくすものだと思いました。
それでは、目に見えない私の中はどのように変わったでしょうか。
自分の築いてきた人生がガラガラと崩れていきました。
自分の内にあった理由のわからない窮屈な苦しい思いは、自分の霊の苦しみだったのだとわかりました。神様と繋がってこそ本来の生き方なのに、神様について知らず、探さず、挙句に間違ったものに繋がろうとし、苦しかったのだと。これこそが真理の道なんだと、息を吹き返すのが、わかりました。
聖書や有料記事を読んでいると、自分も同じように清くなってきたように感じていました。聖書にも罪について沢山書かれていますが、「自分は大丈夫だ」と、罪がなくなってきたような錯覚に陥りました。それも、耳元で、「罪はないよ」と囁かれていただけでした。2017年9月から始まった朝のお祈り会の中で、罪について、細かく教えて頂き、ようやく、真剣に自分の罪と向き合うことができるようになりました。「それが罪だったのか」と毎回頭を殴られるような感じでした。
ともかく、神様に立ち返る前に犯した罪も、立ち返った後にも毎日犯す罪も、気づかない罪も、ひたすら教えて頂きたいと、祈り、ともかく「罪をなくそう」「悔い改めよう」ともがき始めました。
と、同時に、今までいったいどれだけの罪を抱えてきただろうか、と嫌になりました。若い兄弟姉妹に比べ、格段に罪も多い、悔い改めるのも並大抵ではない、悔い改められるかもわからない、やっと清めて頂いた次の日に死ぬかもしれない、とクラクラしてきましたが、どんなに時間がかかろうと、それしか道はありません。
しかも神様は時を急いでらっしゃる、時間は無駄にできません。
でも、私はとても弱いことがわかり、自分でうんざりしています。神様に立ち返る前は、自分は強い人間だと思っていました。根気強く、諦めない性格でした。就職活動では、「体力と根性だけは負けない」と豪語してきたのに、見るも無残です。この弱さに何としても打ち勝たないといけません。
RAPTさんは25年の間もがき続けた中で悟ってこられたことを伝えて下さいます。私の力で悟ったことではなく、教えて下さったからこそ、悟ることができました。RAPTさんは、この世の誰よりも熱く神様を愛され、誰も気づかれない神様の深い心情を悟られました。そのお方が伝えて下さったからこそ、私も悟ることができました。私が「悟る」という言葉を使うのはおこがましく、「わかった、理解できた」というところでしょうか。それでもようやく「悟る」と使っていいかなと思うようになりました。
人類を愛する神様の存在を教えて頂きました。その神様が、人知れずどれだけ悲しまれてきたのか。強烈に胸が苦しくなりました。
私は、神様に、健康な肉体を頂き、何の事件や事故に巻き込まれることもないように見守って頂いたのに、唯一の神様を呼び求めることもせず、呑気に、高慢に、浮かれて生きてきました。罪や汚れにまみれて、薄汚なく、何もできないちっぽけな人間なことに気づきもせず、高ぶって生きてきました。
神様に何と言えばいいのか。今更、御前にのこのこと出れる状態ではありません。
神様のために、全く生きていませんでした。
本当に申し訳なく思っています。
ですから、残りの人生全て、自分の時間も、できることも、神様に喜んで頂けるように、お捧げしたい、お尽くししたい、ただただそれだけです。
まずは、インターネット上で発信できるベースを作ろうと、このブログを立ち上げました。記事の内容はまだ試行錯誤しているところです。
まさか、自分がRAPT理論を元にネットで情報拡散ができるようになるとは思っていませんでした。果たして、そんな勇気があるだろうかと思いましたが、始めてみれば、何も恐れることなく、情報発信ができるようになりました。
と同時に、神様について知ってもらうために、何とか、自分の個性や才能を見つけて、伸ばしたいと思っていますが、まだ道は見えていません。
自分でも見て見ぬふりをしてきたのですが、学歴だけが高く、本物の実力がついていないことに加え、伸ばすような趣味もなく、興味があることに手を出してみては悩み、を繰り返しています。
それでも、何の変哲もない、人知れず、穏やかに終わるだろうと思っていた私の人生。今はそんなことは微塵も思っていません。人生のクロージングも返上です。人知れずでいいのです。目立つ必要もありません。
ただ自分の中で、大きな夢が出来ました。生まれて初めて、心底叶えたいと願う夢です。こんな夢を持つことができるなんて、幸せなことだと思います。ただ夢に向かって邁進するのみです。夢が実現しないと死ぬことはできません。
しかし、道は狭く、険しい。口で言うような簡単なものではありません。
いくら、この身を捧げたいと願っても、汚いならば、見ても頂けないでしょうから、自分自身の汚れをとって真っさらにしていかなくてはなりません。
実際、何度も挫け、倒れてきました。今となっては、何が原因でつまずいたのかをよく覚えていませんが、途方にくれているシーンは覚えています。
それでも、神様は、何とか立ち上がらせて下さいました。重い私のお尻をそれこそ蹴って下さったと思っています。
と同時に、こんな私がこの道を進むことができるのは、兄弟姉妹が、いつもお祈りをして下さっているんだろうとひしひしと感じています。ですから、兄弟姉妹へのお祈りは欠かすことはできません。
そして、神様のために、何とか役に立ちたい、何とか御恩をお返ししたいと願うと共に強く心の底から沸き上がるのは、中心者RAPTさまへの思いです。
本当のことを教えて下さり、救って下さいました。私達がRAPTさまに任せっきり、頼りきりで、信仰もなかなか育たない中、忍耐強く、御言葉を述べ伝えて下さりました。
声でしか窺い知ることのできない尊いお方でありますが、その力強い御言葉に、どれだけ救われたことでしょうか。「生まれてきて下さってありがとうございます」と、その奇跡をどれだけ感謝したことでしょうか。
今まで、散々頂いてばかりですから、やはり、何とかして、その御恩に報いたいですし、何とかお返ししたい。遠くにいますし、私ごときがおこがましいのですが、それでも、何とかお支えしたく、お守りしたく、お尽くししたいです。
自分の命は、どうでもいいのです。決して雑な意味ではなく、ただ、自分の命よりも、かけがえのない、守らないといけない存在のためです。
私には子供がいますから、確かに子供が生まれて、自分以上に大切に思ってきました。でも、神様、中心者RAPTさまに対する、この思いは、当然その比ではありません。
そう啖呵を切っても、何に負けるか、何が起こるかはわかりません。目をつむる最後の瞬間までわかりません。
それでも、自分だけのため、家族のために生きるよりも、本当に価値のある、人生を全うしたいです。
私の場合は、長い人生を経て、ようやく辿り着きました。前にも申したように、この時ほど、「日本人に生まれてきてよかった」と身に染みたことはありません。また日本に生まれていても、RAPTさんがいらっしゃらない時代ならば、意味はありません。この時代に、日本人として誕生させて下さったことを、決して無駄にしないように、生き抜きたいと思います。
宝物であるRAPTブログは、これからも、どんどん広がることでしょう。
永遠に語り継がれるブログです。
でも、RAPTさんがいらっしゃるこの時代に読んでこそ、一番力を頂けます。
既に、この世は悪人が支配していることはおわかりだと思います。その悪人は、コソコソと悪魔を拝んできました。その悪人・悪魔達によって洗脳され、作り上げてきた自分の考えをいったん脇において、RAPTブログ、そして、有料記事をお読み下さればと思います。
必ずや、人生に大きな力を与え、新しい道へ導いて下さる尊いブログです。
なんだか、長くとりとめのない文章になってしまい、申し訳ございません。
もっと具体的に、「証し」をお話しできるように沢山の「悟り」を積み重ねたいと思います。
これから読まれる、救われるであろう新しい方々、兄弟姉妹と共に、RAPTブログにより大きく変わった私の生きる道を、最後まで走り続けたいと思っています。
RAPT有料記事109(2016年10月8日)私RAPTは神様から見て何者なのか?
RAPT有料記事157(2017年3月25日)神様を一筋の心で愛してこそ、人は真に幸福になれる。
RAPT有料記事159(2017年4月1日)天国に入って永遠に幸せに生きるために、我々は地上でどんな人生を生きるべきか。
RAPT有料記事172(2017年5月15日)嘘を常識とする世の中ではなく、真実を常識とする世の中に作り変えなさい。